メッセージ(大谷孝志師)
主の証人でいる為に
向島キリスト教会 礼拝説教 2024年4月28日
ヨハネ21:1-19「主の証人でいる為に」

 第4週ですが、主が復活した後に起きた出来事を通して主の復活の意味を学びます。ペテロら7人の弟子達がガリラヤの大きな湖で様々な名で呼ばれるティベリア湖畔にいた時、主イエスが再び、ご自身を弟子達に現したのです。彼らは夜通し漁をしましたが、何も捕れなかったのです。夜が明け始めた頃、主が岸辺に立ちました。百㍍離れていたので、主だとは分かりませんでした。すると主は「食べるのはありませんか」と彼らに言います。しかし主は魚が欲しいからそう言ったのではありません。彼らが主に言われた通り舟の右側に網を打つと、網を引き上げられない程おびただしい数の魚が獲れ、そのまま約100㍍網を引いて陸に上がると、炭火が起こされ、その上に魚はが有ったからです。主は夜通し漁をした弟子達の為に、食べ物を用意していたのです。

 この出来事を読むと、ルカ5章の主がペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネを人間を捕る漁師にしようと言い、彼らが全てを捨てて主に従った時の記事を思い起こします。主はここで、これから自分達に聖霊が降り、主の証人となり、全世界に出て行って福音を宣べ伝える働きをする彼らの為にこの経験をさせたのです。その働きは、夜通し働いても一匹の魚も捕れないような状況になるかもしれない働きなのです。しかし、ふとみ言葉が示され、福音を伝える機会が与えられる時があるのです。それは目には見えないけれど、主が共にいて、それをさせる為にした事なのです。み言葉に従って行動するなら、豊かな実りが与えられると彼らに教え、私達にも教えているのです。ですから私達は「使徒の働き」やパウロや他の弟子達の手紙を読むと、それが事実と知り、私達にも同じ事が起きるとの希望をもって世に生きられるのです。

 さて、主は弟子達に「さあ、朝の食事をしなさい」と言います。聖書は、主の言葉に従い、漁をし、豊かな収穫を得た彼らに、更に必要な事があると教えます。彼らはこの後、聖霊の満たしを経験し、福音を伝え、世の人々を主のもの、収穫物とする働きをすることになります。人間をとる漁師となるのです。世に出て行って、主の証人として働き、実りを得た彼らは、行きっ離しではないのです。主の元に立ち帰り、主が用意した食事を与えられることが必要と聖書は教えています。これもまた、私達にも必要なことなのです。

 「イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた」と有ります。これを読んで何を想像したでしょうか。そう言われて聖餐式を想像した方が多いと思います。聖書は聖餐式、主の晩餐式とも呼びますが、私達の教会では第一聖日礼拝の中で行っています。ここで弟子達は、主が用意したパンと魚を与えられ、食べたのですが、聖餐式では、教会が用意し、器に分けたパンと葡萄ジュースを配餐人が会衆の所に行き、各自が取って戴きます。これは十字架に掛けられた主の体と流された血を象徴するものです。聖なる者なので、主イエス・キリストを信じ、キリスト者となった者が戴けます。これは自分がキリスト者であることを自他共に確認するためのものでは有りません。今日の聖書の言葉は、聖餐式には世で主の証人として働いた者が主の元に立ち帰り、主の体と血を象徴するパンと杯を戴くことにより、主と一つになる経験をすることにより、疲れを癒され、新たな力を頂き、新たな思いで世に遣わされていく為のものと教えられるのです。

 礼拝は、聖書の言葉を主が自分に与えられて御言として心に蓄え、牧師の説教を聴き、聖書の言葉が意味するところを説き明かされ、新たな知恵と力を戴く、リフレッシュの時であり、聖餐式は世に生きる私達が月に一度、聖餐という霊の賜物を戴き、自分自身と主イエス・キリストとの霊的な交わりの中で、疲れを癒され、世に新たな思いで出発する恵みの時なのです。主はご自身を三度目に彼らに現し、この事を教え、私達にも教えているのです。

 食事を済ませると、主はシモンに「ヨハネの子シモン、あなたは、この人達が愛する以上にわたしを愛していますか」と聞きます。主に突然こう聞かれて彼は驚いたでしょう。彼は、捕らえられた主の後を追って行った大祭司邸の中庭で「この人もイエスと一緒にいた」と言われ、三度主との関係を否定したからです。とは言え、そう聞かれた彼は「はい。主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えます。彼は主のそう聞かれた時、主が最後の晩餐の後、「今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」言われ、その通りに鶏が鳴き、主が振り向いて自分を見詰めたことを、思い出したのではないでしょうか。自分が主イエスの仲間だと分かれば、殺されるかもしれないと思い、自分可愛さから自分の身を守ろうとした自分を包み込むような主の眼差しに、耐えきれない思いで、外に出て行って激しく泣いたのです。そのような自分を愛する主を思う時、更に強く主を愛する思いが湧き、主の十字架の死後も弟子達の中心になって働く自分の主への愛を主ご自身が知っていると思い、そう答えたのでした。すると、主イエスは「わたしの子羊を飼いなさい」と、彼に命じたのです。

 そして、主は再び彼に言います。「ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛していますか」と。彼も再び、「主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えます。ここで最初は子羊で、後の二回が羊となっていることには意味の違いはありません。また、主が彼に問う時の「愛」はアガペー(神の愛)で、彼が主に答えた時の「愛」はヒロー(人の愛)なのですが、主が最初の時に「この人達が愛する以上に」と言った時もアガペーを遣っているので、どちらも同じ意味と考えられています。「飼う」「牧す」も同じです。すると再び、主はペテロに「わたしの羊を牧しなさい」と言います。ペテロはイスカリオテのユダのように、主イエスをユダヤの宗教指導者達に売り渡したのではありません。しかし彼は、「あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと覚悟はできております」と言い切ったのです。そして極限状況に立たされた時、自分の思いとは全く逆の言動をしてしまったのです。意志の弱さという問題ではなく、自分が一番大事なのは自分だったという自分の本質を、自分に、自分が一番大事と思っている側にいる主に、明らかにしてしまったのです。彼は二度目に「主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言いますが、忸怩たる思い(自分の不手際や失敗に対して、恥ずかしさや申し訳なさを強く感じる心情を表す表現)だったと思います。

 主はそのような彼を放置しておきませんでした。それが私達が信じている主イエス・キリストなのです。しかし、主は「平安があなたにあるように」と「安心しなさい。大丈夫だよ」ではなく、三度目も同じ言葉で「ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛していますか」と言ったのです。この後、ペテロが言うように主は全てをご存じなのです。人の心の内にある弱さをご存じだから、彼に自分の心を確認させたのです。ペテロだけでなく、主の為に働く全ての人に必要な事だからです。主の為に働くことは、主に全てを捨てて主に従うことです。主に従っていても、何の収穫も得られず、実を結べない自分にただただ疲れることもあるのが現実です。しかし主は弟子達に食事を用意していたように、霊の糧を豊かに与えて私達を養い、主のご用に当たらせて下さるのです。私達にも「私の羊を飼いなさい」と命じています。羊を飼うと言っても「牧師になりなさい」と言うのではありません。主の召命を受けて牧師になる人はいます。しかし全てではありません。でも大牧者の主イエスと共に、自分の周囲の人の隣り人に成り、その隣人を自分自身のように愛することはできるのです。主は「私の羊を飼いなさい」「私の働き人になりなさい」「私に従いなさい」と語り掛けているのです。主に養われ、主に従い、主の働き人となり、自分の生き方を通して。神の栄光を現しましょう。