証し(綿谷 剛兄)
 クリスマスに寄せて - 4つの愛 -

 クリスマスは愛の祝祭と呼ばれます。私自身のこれまでの歩みを振り返りつつ、「4つの愛」について思いを巡らせてみたいと思います。

【神の愛を受ける】

 今のようにクリスマスが恋人達の日ではなかった頃、大阪のごく普通のノンクリスチャン家庭で、両親は毎年12月25日には子供のためにクリスマスケーキやプレゼントを準備して祝ってくれました。それが子供の頃のクリスマスだったと思います。

 私はいじめられっ子ではないのに、友達に少しからかわれたりしただけで必ず泣いて帰ってくるような気の弱い子供でした。家でもしょっちゅう叱られて泣いていました。

 そんな私がイエス・キリストに最初に出会ったきっかけは、小学六年生の頃、「偉大なる生涯の物語」という映画をテレビで見たことでした。それから私はキリスト教の持つ博愛主義について興味を持ち始めました。そんな頃、家の箪笥の上に聖書を見つけました。両親は若い頃、教会に通っていた時期があったということをその時初めて知りました。私は少しずつ聖書を読むようになっていました。

 中学二年のある日、友達に誘われて平野バプテスト教会(日本バプテスト連盟、当時伝道所)の礼拝に通いはじめました。いつも牧師先生がイエス様との出会いの素晴らしさを分かり易く話してくれたメッセージは小さな私の心に響き、教会のお兄さんお姉さん達の笑顔と優しさが心を温めてくれました。聖書のみ言葉は私の心に染み透り、イエス様が私のことを愛して下さっている、そう思うようになりました。

【自分を愛する】

 大学時代に一時教会に行かなくなった時期がありましたが、神様の愛を強く感じるできごとがあり、再び教会生活に戻り暫くしてバプテスマを受けました。青年達との信仰生活は楽しくクリスマスコンサートではバンドを組んで自作のゴスペルフォークを歌ったりしました。それでも私は子供の頃抱いていた劣等感をずっと持ち続けていました。人を怖れてうまく付き合えないことや、機転がきかないこと、やろうと思っても踏み出せないこと、そういった自分自身の弱さをどうしても拭い去ることができず、泣き虫だった幼い頃の低いセルフイメージから離れられませんでした。

 就職して尾道に移り、連盟の福山バプテスト教会に通いましたが、結婚して暫くした頃、神様は旋律を伴って次のような詞を与えて下さいました。

 「そのままでいいよ」綿谷 剛 (オリジナルCD “We Are One World”より)

   強くなりたかった 弱さ捨てたかった 
   そして優しささえも 置き忘れて来た
   ふと気がつけば 自分の中に何もなかった
   そのままでいいよ そのままでいいよ 優しく主は語りかける
   そのままでいいよ そのままでいいよ 
   主に目を向けるなら 主の御手は私の弱さに働く

 クリスマスのメッセージの一つは、イエス様が弱い人々のところに生まれて下さったということです。自分のことをありのままで神様が受け入れて下さっており、自分も自分自身のことを条件をつけずに受け入れていいんだと思えるようになりました。

【人を愛する】

 結婚してしばらくして、ある家庭内の事情で現在の向島キリスト教会に移ることになりました。それまで比較的順調に信仰生活を送っていた私が信仰的にとても落ち込んだ時期でした。信仰熱心な向島の兄弟姉妹や牧師夫妻に支えられて、徐々に回復することができ、少しずつ教会の働きにも加わるようになりました。

 その中で牧師の退任、交代、会堂建築など多くのできごとがありました。多くの問題を通らされました。教会の中で神様を愛しているはずの人と人とが激しくぶつかり合うただなかにあって、多くのことを学んだ気がします。

 献堂式の式辞で小野慈美先生が「教会を壊すのは『正しさ』である」と言われたことが印象に残っています。信仰熱心であるほど正しさを主張して人を裁いてしまうことがあります。私も福山教会では教会代表という責務を負っていましたが、今思えば自分がより心地よく過ごせる教会作りをしようとしていたように思います。自分が納得できないことを問いただしたり、小さいことに目くじらを立てたり。しかし、正しさを主張する時、自分がより心地よく過ごしたいということが動機になっていることがあります。同じようにすれば他の人も心地よくなるとは限らないのだと気づかないのです。そして自分が批判されることや傷つけられることを正しさの剣で振り払おうとしてしまうのです。

 クリスマスのもう一つのメッセージは、イエス様は人の救いのために神の子である身分を捨てて人となった(ピリピ2:6〜7)ということです。神の子が全能の力を発揮するためには人にならない方が良かったはずです。しかし敢えて不自由な肉体を纏われた。それは私たち罪人を愛し、より近くに寄り添うためでした。

 人を愛そうとするとき、正しさの剣を後ろに置かないといけません。自分が傷つくことを厭わず、損することを承知していなければなりません。そのことに気づかされました。

【神を愛する】

 今年3月に向島教会で持たれた「ビジョンを語る会」でも話したのですが、教会の役割は主の祈りの3つ目の祈り「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」の実現のため、天と地の接点として神と人とを繋げて行く働きなのではないかと思わされています。

 人の浅はかな思いや知恵を廃し神の御声を待ち望むと称して、思考を停止し誰かの言葉を鵜呑みにすることが信仰ではないと思います。イエス様は最も大切な教えは「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。(マタイ22:37)」だと言われました。私たちがいただいている経験、知識、思考力、体力などの賜物を用いて、全力で「自分自身のように隣り人を愛する(マタイ22:39)」ことによって、神様のみこころを地上に実現していくのが神の身体である教会の働きだと思いますし、それが「神を愛する」ことになるのだろうと思わされています。

 「What Would Jesus Do?」より 綿谷 剛(平野バプテスト教会讃美歌集ひらのうた40)

 What would Jesus do? 僕たちは今何を求められているのだろう
 What would Jesus do? 僕たちは今何に気づいてゆくのだろう
 あなたの足跡たどりながら ただ歩いて行けたらな

 私も与えられた場所で、神様に受け容れられたそのままの自分を用いていただきながら、そしてできれば少しずつ成長させていただきながら、微かでも神様のお役に立てたらと思っています。

                                                     2015年12月