教会運営における牧師と信徒(役員)の役割
         (2016.8.11研修会発題:綿谷 剛兄)
 今日は、「教会運営における牧師と信徒の役割」について、皆さんで分かち合いたいと思っていますが、今回は、私の方から「発題」させていほしいとお願いしました。けっして「講義」ではありませんので、「話」のきっかけとして、お話させていただきますので、皆さんも普段から考えておられることをぶつけていただけたらと思います。

1.聖書における教会指導者
 @十二使徒の任命と使命(キリスト生前)
 最初に、新約聖書から見て行きたいと思います。
 まず、イエス様が弟子たちを任命されたというお話です。
 マタイ福音書の4:18で「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。 彼らは漁師だった。イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。」とあります。
 聖書では、イエス様は、弟子を招いておられる場面がいくつかありますが、その目的をはっきりと述べられているのはこの箇所だけではないかと思います。イエス様は最初からペトロを「次期リーダー」として見ておられたのかもしれません。
 「人間をとる漁師にする」というのは、「人々を罪の世から救い出し、神のものとする。」「神のもの」すなわち、「人間の本来あるべきあり方にする」ということですね。
 こうして、 「人々を神の国に導き入れるための「働き人」」として、イエス様は、弟子を導かれているのだろうと思います。

   次に、イエス様が弟子の中から、十二使徒を任命した記述を見てみます。
 イエス様は、御自分の働きを拡げて行くため、使徒を選び、宣教活動のために派遣されます。
 マタイの福音書10章1節 「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。 汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。」 7節「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。」
 ここで、十二使徒の任務が、ふたつあげられています。1つは、「宣教」であり、「天の国のおとずれ」を宣言すること、もう1つは、悪霊払いと癒し(心と体の病からの解放)です。
 12使徒の任命の後、72人の弟子の任命の記述があります。 ルカの福音書10章1節「その後、主はほかに72人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。」
 聖書を読んでいただいたら分かりますが、ここでも、弟子たちの任務を、「神の国のおとずれ」の宣言と、「病人の癒し」だとしています。

 A十二(11)使徒の任命と使命(復活後)
 さて、次に、「大宣教命令」について見てみます。
 イエス様が十字架にかけられ、復活された後、弟子たちに現れ、昇天されるまえに、弟子たち自身による宣教活動を始めるにあたって、弟子たちを集めて、「大宣教命令」をなさいます。
 マタイ28章18節 「イエスは、近寄って来て言われた。『私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』」
 ここでは、弟子集団に対し、3つの任務が与えられています。
 「すべての民を弟子に」し、「バプテスマを授け」、「教えを守るように」せよ、ということです。
 また、マルコ16章15節では、「それから、イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい』」として、福音宣教の任務が与えられています。

   また、続いて、使徒言行録の記述によると、イエス様の復活後の命令として、
 使徒1章8節 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と言われています。

 B十二(11)使徒の任命と使命(まとめ)
 もう一度、イエス様から使徒に与えられた任務を振り返ってみますと、イエス様の生前に与えられた任務は、 「神の国の到来を宣言すること」「心と体の病(つまり人生を生きる中での苦しみ)からの解放」であり、復活後に与えられた任務は、 「全世界に向かって、イエス・キリストの証人となり、神の国の到来を宣べ伝えること」、「全ての人を弟子とし、バプテスマを授け、イエス・キリストの教えに従った生き方をするよう導くこと」であると言えます。

 ここで、宣教と牧会というテーマが与えられていると言えるのではないかと思います。

 C執事の選任と使徒との役割分担(使徒言行録)
 このようにして、イエス様が昇天され、使徒たちを中心として、「教会」というものが始まって行くのですが、どのような活動が行われていたのかを見てみると大変興味深いことが分かります。
 使徒言行録の2章41節以降を見てみましょう。
 「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に3千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有し、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。
そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」

 最初の教会で行われていたことは、
 @神殿に参る(すなわち、神を礼拝する。)
 A使徒の教え(これは説教が行われていたことを示しています。)
 B神を賛美する
 C祈る
 Dバプテスマを行う
 Eパンを裂く・これは聖餐式が行われていたことを示しています。
 F相互の交わり
 G一緒に食事をする

 こうして見てみると、ここに、今、教会で中心的に行われている活動のほとんどのことが含まれており、現在の教会の形がすでにできあがっていることを見て取れて、おもしろいと思います。

   さて、教会が始まった時代には、使徒を中心とした教会運営が行われていたのですが、教会が大きくなってくると、さまざまな運営上の問題が出てきました。12使徒だけでは、管理できなくなってきます。
 そこで、使徒言行録の6章では、いわゆる「執事」の選出が行われています。
 使徒6章2節〜「そこで、12人は弟子をすべて呼び集めて言った。『わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を7人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。』 一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは祈って彼らの上に手を置いた。」
 使徒は、イエス様によって直接任命されました。ユダが離脱した後、マッテヤがくじびきで選ばれました。 しかし、執事7名は、信徒によって選ばれました。彼らは、霊と知恵に満ちた評判の良い人でした。
 ここに、選ばれ方が大きく異なっていることが注目できます。使徒は上から選ばれ、執事は仲間から選ばれました。そして、執事たちは、使徒から按手を受けて、認証されています。
 また、使徒と執事には、役割の違いがありました。使徒の役割は、祈りと御言葉の奉仕であり、霊的奉仕ということができます。それに対して、執事の役割は、ここでは「食事の世話」ということになっていますが、これはいわゆる「教会運営」ということになると思います。すなわち、俗的な部分での奉仕、ということができると思います。
このようにして、教会の中での役割分担が少しずつ進んでゆくことになります。

 

 D牧師、執事の資質
 少し、時代を下ってみます。パウロの伝道によって始まったエフェソ教会の指導体制を見てみましょう。
 第Tテモテの3章を見てみます。ここでは、「監督」の資格と、「奉仕者」の資格について記述されています。
 ここで言う「監督」は、ギリシャ語で「エピスコポス」だそうですが、これは、いわゆる「司教」を表す言葉だそうです。地域の各個教会の指導者であったと考えられます。今で言うプロテスタントでは「牧師」のことと捉えても大きく間違っていないと思われます。
 また、「奉仕者」は、ギリシャ語で「ディアコノス」だそうで、多くの場合、「執事」と訳されます。
 3章の1節〜13節まで、少し、読んでみて下さい。
 ここでは明確には書かれていませんが、「監督」は、教会のリーダーとして、霊的な奉仕を任務としていたと考えられます。「奉仕者(執事)」は、人々に仕え、信徒たちに必要な世話をする役割を担っていました。
 注意すべきことは、この聖書の箇所では、「監督」も「執事」もどちらも、「信徒の中から選ばれている」ということです。

 

   3章1節〜7節には、「監督・司教・牧師」が持っているべき資質について、述べられています。
 「品位があり、道徳的である」ということ、これは「人格」が備わっていることを表しています。 次に、「他人とよい関係をもてる」ということ、これは、「対人能力」が備わっていることを表しています。次に、「よく教えることができる」ということ、これは、「指導力」があるということです。
 「人格」「対人能力」「指導力」を持つことによって、「みことばを伝える」という任務に遣わされて行きます。これは、教会の中で、指導的役割を担っていくということであると言えると思います。

   次に、8節〜13節に、「奉仕者・執事」の資質について書かれています。
 「品位があり、道徳的」であること、これは「監督」と同様、「人格」が備わっているということです。次に、「敬虔」であること、これは神様に対する「信仰」が備わっているということです。そして、最後に、
「審査を受けるべき」と宣べられており、ただ、自分がなりたい、というだけではダメで、教会から信任を受けていることが必要であるということでしょう。
 これらの資質により、「奉仕者・執事」は、人々のお世話をし、教会運営に携わっていくことになります。

2.バプテストの起源から
 @叙階を持たない群れ
 これまで、主に新約聖書から、12使徒や、執事について、どのように任命され、どのような任務を与えられたのかを見てきました。
 次に、これらを踏まえた上で、私たちの教派であるバプテストの群れの考え方について、見て行きたいと思います。
 参考にお配りしている資料があります。これは、日本バプテスト連盟の東京北キリスト教会のホームページに掲載された、恵泉バプテスト教会の教育部がまとめた「バプテストABC」という資料から抜粋したものです。ここには、私たちのバプテストの起源についてまとめられており、私達の祖先であるバプテストの初期の教会の人たちが、どのような考えで、バプテスト教会を形成していったのかが書かれています。
 まず、大切なことは、バプテストは教職者について、「叙階を持たない群れである」ということです。
 初期バプテストの当時、他のプロテスタント諸派でさえ、聖職者は、ケンブリッジ、オックスフォードなどの大学で神学教育を受け、叙階を受けた者が、牧師となっていました。
 しかし、バプテストは、神との関係は、高等教育によってもたらされるものではなく、聖霊との関係によってもたらされるものであると考えました。
 初期のバプテストの指導者たちは、世俗の職業に従事する平信徒でした。資料にありますが、小領主、毛皮職人、靴下職人、石鹸製造工、鋳掛屋などが、説教を行っていたと書かれています。
 これは、当時の他の教派から「桶説教師」などと呼ばれ、散々批判を受け、異端として排斥され、迫害されていたと言われています。

   カトリックにせよ、イギリス国教会にせよ、当時の社会の主流であった教会では、身分的位階制度(ヒエラルキー)という確固とした組織の形がありました。
 法王が聖職者を任命する。上のものが下のものを任命する。そして、聖職者と平信徒のあいだには、聖と俗というけっして交われない違いというものが存在していました。
 しかし、バプテストは、これを真っ向から否定しました。「説教者、指導者は、信徒が任命する教職者と平信徒の間には、身分的な差異を認めない。徹底した会衆主義をとる。」ということでした。

   

   第1コリントの12章27節〜28節に、教会における様々な役割を担う人の名称が記されています。
 第1に使徒、第2に預言者、第3に教師、奇跡を行う者、病気を癒すもの。
 これを、教会制度の中での叙階である、と捉えることも可能かもしれません。
 しかし、バプテストは、右の図のように、一つのキリストの身体を形作る部分であり、役割分担であると捉えます。ここに身分的な叙階を認めないのです。

 

 A召命と委託

 さて、それでは、教職者(ここでは牧師ということにします)は、どのようにして牧師になっていくのでしょうか。
 まず、神さまと牧師の関係について見ます。
 牧師は、神さまとの関係の中で、「召命」と「献身」によって、立たせられています
 パウロが、ガラテヤ書で自分が使徒とされたことについて、こう主張しています。「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、イエス・キリストを死者の中から復活させた父である神とによって」使徒とされたのだ、と主張しているのです。
 神さまからの呼びかけ、「私の証人として立て」という「召命」、そしてこの「召命」に対する確信、「召命感」が、最も大きな根拠となると思います。
 この神様からの呼びかけに対して、「はい、あなたに従い、あなたのために働きます」という決心、これが「献身」ということになります。
 この「召命」と「献身」なくして、教職者(牧師)となることはできません。

 

   しかし、それだけでは、教職者(牧師)になることはできません。
 使徒13章2節には、バルナバとサウロについて、「わたしのために聖別して、彼らに授けておいた仕事にあたらせなさい」と書かれています。ここに、教会の信徒達の関与が出てきます。
 召命を受け、献身した人は、それだけでは、教職者(牧師)になることができません。教会が、その人を「聖別」し、その任務を「委託」することが必要です。このことによって、教職者(牧師)は、教会を指導し、奉仕する役割を与えられるのです。

 

 B信仰者のバプテスマの意味
 さて、このような牧師と信徒の関係は、どのような状況の中で、成り立っていくのでしょうか。
 バプテストは、その最初の時代から、「信仰者のバプテスマ」ということを主張してきました。「幼児洗礼」を行わず、「信仰を言い表すもの」に対してのみ、「バプテスマ」は有効である。という考え方です。言い換えると、バプテストにとって、「教会」とは、「自覚したものの群れ」であると言うことができます。
 「教会とは、 教会員相互の合意により、それぞれの信仰告白にもとづいて、各自が主イエス・キリストと教会員相互に結び合わされている交わり」である、ということです。
 「自覚」したものの群れ、この「自覚」とは、何を自覚した者かというと、まず、「信仰者」としての自覚(すなわち、自分はイエス・キリストによって罪赦され、救われたものであるという自覚) そして、それに加えて、「ともに神の働きの担い手である」という自覚、この2つではないかと思います。
 この2つの自覚を持つ信徒たちによって、教会が成り立っていくのではないかと思います。

   カトリック教会では、教会や、聖職者の仲介により、神の救いを受け、また信仰を表してく群れということができますが、バプテストにおいては、個人がそれぞれ、直接、神から救いを受け、直接、信仰を表します。そして、それぞれが、神の身体の部分(肢体)として、組み合わされ、ともに教会を形作っていくと考えます。

   

3.牧師と信徒の役割
 @牧師と信徒の関係

 ここまで、初代のバプテストからの考え方について、見てきました。 ここからは、私達の教会における牧師と信徒(役員)の役割について、見て行きたいと思います。
 さて、教会の中での牧師の働きはどのようなものなのでしょうか。まず、牧師と信徒の関係について、見てみようと思います。

 
   まず、牧師と信徒の関係は、ヨハネ福音書10章2節〜4節に書かれたような、羊飼い(イエス・キリスト)と羊(人々)の関係になぞらえられるようです。つまり、羊飼いは羊を導き、養うものであり、羊は羊飼いを信頼するという関係です。
 ただし、異なっているのは、イエス様が羊飼いであり、私達が羊であるという関係は、本来的、絶対的なものであるの対し、教会において、牧会者の立場は、牧師を教会の群れの牧者として関係を結ぶことによって成立する、とうことです。これは、招聘と委託という契約によって、成立するということです。
 

 A牧師の役割 
   それでは、牧師の役割は何でしょうか。それは、まず、これまで見て来たように、福音書や初代教会時代の「使徒」、また、書簡時代の「監督」の役割を担っていくことになると思います。
 牧師の最も基本的な役割は、「神の国の到来を宣言し、」、「み言葉を解き明かす」ことにより、
人々を神と結びつける」という役割であろうと思います。これを言い換えると、牧師の大きな働きは、「福音宣教」と「牧会」にあると思います。
 「福音宣教」には 説教(御言葉を宣べ伝えること)、教育、儀礼(礼拝、礼典)を司ることなどがあります。また、「牧会」とは、羊の群れを養い、育てることであり、これは、
  ・一人一人の魂に配慮していくこと、
  ・そして、教会という群れ全体を導いて行くこと
であろうと思います。
   

   初期のバプテストの群れにおいては、平信徒による説教が行われ、つまりは、兼業で牧師をするという状況だったのですが、牧師の役割の重要性が大きくなってくると、やはり、専任性、専門性が重視されるようになってきます。
 宣教においては神学的知識・技能が、また、牧会においては心理学的知識・技能が重要になってきます。

   さて、牧師に必要な役割として、やはり、リーダーシップがあげられると思います。
 あの人はリーダーシップがあるとか、ないとか言うような言い方をすることがあるのですが、リーダーシップというのは、そういうその人に備わった「能力」とか「賜物」のことを言うのではなく、集団を導く「役割」のことを言います。
 リーダーシップというのは、「黙って俺について来い」ということではなくて、「目指すもの(目標とか、ビジョンといったもの)」をメンバーに指し示して、そこへ辿り着くための「道(どんな方法で、どういう手順で)」を示し、人々に、「動機づけ(行きたくなる気持ちを起こさせる)」を与えて、ともに歩いていくことだと言えると思います。

   まず、リーダーは、目的・目標を設定します。御言葉、祈りを通し、かたく神と通じることによって、しっかりとした目的・目標(ビジョン)を持つことです。
 一方で、現状を的確に把握します。人々の現状(これには、心、体、生活などが含まれます)と、 人々が置かれた社会的な状況をしっかりと把握し、分析します。
 そして、目的に到達するために、何が必要なのかを考慮します。また、どの道を通るか、道筋を設定します。
 こういったことを、神さまの導きの中で、計画し、メンバーに伝え、その気になってもらい、ともに実行していく、歩んでいく、それが、教会におけるリーダーシップなのではないかと思っています。

   

   リーダーシップの役割を行っていくときに、期待される資質として、責任感、判断力、決断力、忍耐力が必要であると言われています。
 責任感は、課題や目標を何としても成し遂げるという責任感、方向性、計画を決定するための責任感、また、監督(エピスコポス)という言葉は、「全体を見渡し、それを組み立てる力」という意味があるそうです。
 判断力は、情報を取得し、状況を分析し、メンバーそれぞれがどのような賜物を持っているのかを理解する力です。
 決断力は、制約のある中で、最善を決断する勇気です。
 忍耐力は、困難や弱さの中で、目標をめざして歩み続ける持続力、あきらめない力です。

   さて、リーダーシップのタイプには、権威型と参与型があります。
 権威型とは、リーダーが強い指導力を発揮し、メンバーはそのリーダーについていくというようなリーダーシップです。これに対し、参与型とは、メンバーにより強い決定権を与えつつ、それをとりまとめていくリーダーシップです。
 自分達の教会では、どちらの傾向が強いか、考えてみるとよいと思います。権威型が行き過ぎると、独裁的になり、参与型が行き過ぎると、放任的になる危険性があります。どちらの極端も困ります。
 参与型では、信徒が自ら考え、働こうとする力が強いので、信徒が自立的になりますが、逆に、意見がバラバラになって、まとまらない可能性も出てきます。一方、権威型では、教会はよく治められるかもしれませんが、信徒が依存的になり、自立性を失ってしまう危険性があります。
 牧師に強い指導力がある場合には、牧師の資質によって、うまく導かれると、教会が霊的に保たれていくかもしれません。逆に、信徒に強い権限があると、ともすれば、教会が人間的に、世俗的になってしまうかもしれません。
 牧師の権威の強さと、信徒の権限の強さについて、どのようなリーダーシップの型をとるのが良いかは、そのリーダーの資質(キャラクター)と、教会の状況(まとまり方や、自立の程度)によって決まって来ると思います。
 バプテストは、会衆派でありますので、通常は、参与型に近い形態をとることになると思いますが、行き過ぎることの危険性を理解しつつ、相応しいあり方をとっていくことが必要だろうと思います。

 

   次に、牧師の役割を、法律の面から見てみたいと思います。
 宗教法人として認められた教会では、通常の場合、牧師が宗教法人法上の「代表役員」となっていることが多いと思います。
 宗教法人法では、「代表役員及び責任役員の宗教法人の事務に関する権限は、当該役員の宗教上の機能に対するいかなる支配権その他の権限も含むものではない。」とあります。 「牧師」という言葉は、教会での宗教上の役割あるいは機能、権限を表すものですが、「代表役員」という言葉は、それらの宗教上の役割、機能、権限とは関係がない。と言っています。したがって、牧師が代表役員を務めるという法律上の規定は存在しません。牧師が代表役員をするというのは、教会が自ら決めていることにすぎません。法律上は、そうでなくても良いのです。
 さて、「代表役員」とはどういう権限があるのかというと、法律では、「代表役員は、宗教法人を【代表】し、その事務を【総理】する。」と書かれています。つまり、代表役員が、【代表権】を持つということは、一般社会に対して、自分の行う行為が、教会の行為であることを公けに認めさせる権限を持つということです。 また、【総理権】を持つということは、教会の内部において、その事務を統括する権限を持つということです。つまり、代表役員は、教会の「事務」の執行の最終責任者であるということです。
 最初に見て来たように、「霊的リーダーシップ」と「俗的リーダーシップ」があるとすれば、「牧師」というのは、「霊的リーダーシップ」を表す言葉であり、「代表役員」というのは、「俗的リーダーシップ」を表す言葉なので、「牧師」=「代表役員」というのは、必ずしもイコールではないのです。

 B執事(役員)の役割
   牧師の役割について、見てきましたが、つぎに、執事(役員)の役割について、考えたいと思います。
 まず、執事(役員)の役割は、「教会を運営し、管理する」ことである。といえると思います。どんな管理かといいますと、例えば、
  ・財務管理(献金、会計、財務管理など)
  ・施設管理(会堂管理、施設・備品管理、電気、ガスなどのユーティリティー管理、清掃やメンテナンスなど)
  ・事務管理(名簿管理、規則管理、週報、図書管理など)
が上げられると思います。

 
   もう一つの執事(役員)の役割は、牧師の働きを支え「福音宣教・牧会」に参画することです。
 福音宣教は、礼拝、祈祷会等の集会運営、宣教行事の運営など、相互牧会は、教会学校(信徒教育)、信徒の交わり、家庭集会の運営などでしょう。お互いに支え合い、成長し合うということですね。

   次に、法律上の役割について見てみます。
 多くの教会では、「執事」と呼ばれる役員が、宗教法人法上の「責任役員」となっていると思います。
 法律を見てみますと、「代表役員及び責任役員は、 常に法令及び当該宗教法人を包括する宗教団体が当該宗教法人と 協議して定めた規程がある場合にはその規程に従い、 更にこれらの法令、規則又は規程に違反しない限り、宗教上の規約、 規律、慣習及び伝統を十分に考慮して、当該宗教法人の業務及び事業の適切な運営をはかり、その保護管理する財産については、いやしくもこれを他の目的に使用し、又は濫用しないようにしなければならない。」とあります。
 つまり、法律上の責任役員の役割は、「業務・事業の適切な運営をはかる」、「法令・規則に従う」、「財産を適切に管理する」、ということになります。

 C牧師と役員の役割分担の実際
   さて、牧師と執事(役員)の役割について、原則的なことを見てきました。多分、なかなかすっきりと理解できないような気がします。いや、部分的に理解できたとしても、そうはいかないよ、ということがあると思います。
 普通、日常生活やそれぞれの仕事のに多忙な執事(役員)のできる奉仕は限られており、専任者である牧師が担わざるを得ない場合が多くあると思います。
 逆に、無牧師の場合や、いろんな事情で、常時専任の教師がいない場合などは、執事(役員)が、本来、牧師が行うはずである役割を担わなければならない場合も出て来るでしょう。

   結局のところ、牧師と信徒(役員)との役割分担は、
  ・原則を踏まえた上で、
  ・当たり前のこととせず、
  ・感謝をもって
  ・委託しあっていくこと
によって、個別の状況の中で取り決めていく必要があると思います。
 「今ここにある私たちが、神さまから与えられた賜物をもって、神さまのご計画の実現のために、何ができるだろうか?」というところに、その場、その場に立って、問い続け、確認していかなければならないのだろうと思います。


   牧師と信徒の役割について、私が考えていることを報告させていただきました。ぜひ、違った視点からのご意見を含め、それぞれ、日ごろ感じていることを、分かち合えたらと思っています。


4.グループ討議 「今、私の教会では?」
   (1)あなたの教会には、どのような仕事(奉仕)がありますか?
 付箋に1つずつ気づいただけ、書いてみましょう。

   (2)教会の仕事(奉仕)を分類する。
 書き出した付箋を分類し、模造紙に貼りつけてみましょう。

   (3)それぞれの仕事(奉仕)は、牧師と役員(信徒)のどちらが担っていますか?
 付箋の貼る位置を変えて、どちらが担っているか、表してみましょう。

   (4)なぜ、そのような役割分担をしているのでしょう?
 どのような理由あるいは原則に基づいてそのように決めたのでしょう?