神の働きへの参画(奉仕)
         (2016.8.11研修会発題:綿谷 剛兄)
 さて、牧師と執事(役員)の働きについて考えるときに、「奉仕」とは何かということについて考えざるをえません。そこで、「奉仕」について思うところをお話させていただきたいと思います。

1.奉仕とは
 「奉仕」とは、何でしょうか。
 国語辞典を引きますと、
  (1) 神仏・主君・師などに、つつしんで仕えること
  (2) 利害を離れて、国家や社会などのために尽くすこと
  (3) 商人が品物を安く売ること
という項目が出ています。
 このことから、教会における奉仕ということを考えると、
 「奉仕とは、神の働きに参画すること」、それも、自分の利害を超えて、その働きに参画すること、また、それに関する全ての「行い」、「働き」のことを言うのだと言えると思います。


2.行いに対する誤解
 @信仰と行い
 ここで、「奉仕」は、「行い」であり、「働き」であると言いましたが、教会の中で、「行い」についての、いくつかの「誤解」があると思うことがあります。
 まずは、「信仰と行い」についての誤解です。
 教会では、「信仰による救い」を強調しますが、そのために、「行い」や「努力」は、重要ではない、と言われることがあることです。
 使徒言行録20章35節で、パウロは、「主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」と言っています。
 「与える」というのは、「行い」そのものです。イエス様が、「与える」という「奉仕の行い」を重視しておられる。そして、パウロ自身が、身をもって、つまり、自ら行うことによって、それを示して来たと言っています。信仰義認を高らかに宣べたパウロがそう言っているのです。

   「信仰」が大事というのは、聖書は、あくまで、「救いを得るための代価としての行いは不要だ」、「救いを受けるために必要なことは、『行い』ではなく、『信仰』のみなのだ」、と言っています。
 ガラテヤ書には、「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。」とパウロが言っている通りです。

 

   そして、その続きがあります。
 エフェソ2章では、「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」と書かれています。
 同様のことは、ガラテヤ書、テトス書、へブル書、ヤコブ書など多くのところに書かれていますが、教会では、結構とりあげられないような気がします。
 つまり、聖書は、「『良き行いを行う』」という目的のために、あなたがたは救われたのだ」と語っているのです。つまり、「『救い』は良き行いへの『召命』と一体である。」ということもできると思います。
 これは、何を表しているかというと、神さまは「救い」を通じて、私たちに、「神の働きに積極的に参加していく」ことを求めておられるのだということだろうと思います。
 私たちは、この召命に応えて行く、献身していくことが求められているのだろうと思います。

   

 A偽善について
 もう一つの誤解として、「偽善」についての誤解があると思います。
 イエス様は福音書の中で、パリサイ人、律法学者たちの「偽善」を激しく批判されました。そのため、私たちは「偽善」について、とても敏感になっていると思います。
 「偽善」というのは、外から見ると、「良い行い」に見られることを行っているが、その動機は、「虚栄心」や「利己心」によるもので、本心や良心から行っているものではないことを言います。つまり、人から良く見られたいために、見せかけの良い行いをするということです。


   

   偽善の動機は、「虚栄心」と「利己心」と言いましたが、「虚栄心」とは、人に(本来の自分の姿よりも)良く思われたい、という心、「利己心」とは、自分が得をしたい。自分が満たされたい、という心です。

   先日、熊本県で大きな地震がありましたが、避難生活をしておられる人々のところへ行って、
「芸能人」が炊き出しをしたりなどのボランティアを行ったりしていました。
 それを見て、インターネット上では、「売名行為だ」とか、「偽善だ」とかいう心無い言葉も、かなり飛び交っていたように思います。
 そうなると、「偽善者だと思われる」ことへの恐れが生じます。そして、「良い行い」をすることに、自分でブレーキをかけてしまいます。「偽善者」だと思われたくない!「悪く思われたくない」という意識です。

 

   ここで、「良く思われたい」のは、何故かと言うと、よく思われると、「自分がいい気持ちになる」、「喜びがある」、「満足する」、「それによって、尊敬される、よい待遇を受けることができる」という効果があるからです。
 「悪く思われたくない」のは、何故かと言うと、悪く思われると、「自分が嫌な気持ちになる」、「落ち込む」、「満たされない」、それによって、「軽蔑される」、「悪い待遇を受ける」という効果があるからです。
 でも、これは、どちらも同じことです。
 結局、「自分が満たされること」、「喜びとなること」が目的となっていることに何も変わりはありません。

   奉仕というのは、「人から良く思われることを期待せず、かつ、悪く思われることを恐れないで、神さまのために、人のために、良いと信じることを行う。」ことであろうと思います。


3.奉仕の原動力
 さて、奉仕を行う場合に必要なもの、原動力は何でしょうか。
 まず、自分に与えられた賜物があげられます。それには、肉的賜物と霊的賜物があると思います。
 肉的賜物とは、「神に目的をもって創造された自分(生まれながらに与えられた自分)」です。霊的賜物とは、「キリストによる罪の赦し、救いによって神の子とされた自分」です。そして、神さまからは、聖霊を通して日々恵みが与えられます。


4.奉仕と喜び 
   この図を見ていただきたいと思うのですが、下の図では、奉仕を行うことによって、自分が喜びを得たい、それが目的になっています。その喜びを得て、またそれを奉仕のための原動力にしていきます。そして、その先にある目的は、「自己実現」です。これは、この世での生活でよく言われている「人生の目的」のサイクルだと思います。
 私はここで言いたいと思うのですけれど、「奉仕をすると、必ず喜びがある」というのは、嘘です。「聖霊に導かれていれば、奉仕をしても疲れない、病気にならない」というのは、嘘です。「喜びがあるから、奉仕をする」というのは、目的が間違っています。「喜びがなければ、奉仕をする意味がない」ということにもなってしまう。それは違うでしょう?

 

   私は、奉仕のサイクルというのは、下の図のようなことではないかと思います。
 奉仕は、あくまで、神のみこころのために行うものであり、その先には、「神の国の実現」という目的に向かっているもの、そしてその先には、聖書に何度も書かれているように「神の栄光のため」です。
 奉仕を行うための力は、神さまから与えられる、救い・賜物・恵みが原動力になります。また、神の国の実現に対する、「希望」が力となります。
 奉仕をするということは、「神の働きを担う」ということだと思います。そして、奉仕の副産物として、喜びが与えられることがあると思いますが、「喜び」のために「奉仕」するというよりは、「奉仕することを、喜びとしていく」という姿勢が大切ではないかと思います。

 


5.賜物は増やせる:タラントの譬え 
   次に、「賜物」について、考えてみます。
 奉仕しようとするとき、自分にその賜物があるのか、あるいは、必要なだけあるのか、と思ってしまうことがあると思います。人と比べて、賜物が足りない、と劣等感を抱いてしまうこともあるかもしれません。
 有名なマタイ25章のタラントの譬えから、何が読み取れるか見て行きたいと思います。
 主人が3人の僕(しもべ)にそれぞれ、5タラント、2タラント、1タラントの資金を渡して旅に出かけます。その間に、5タラント、2タラントを預かった僕(しもべ)は事業を行って、それぞれ5タラント、2タラントを儲けますが、1タラントを預かった僕(しもべ)は、地面に埋めて置きます。
 主人が戻って来た時に、しもべはそれぞれの結果を報告しますが、事業を行って儲けた僕を褒めて喜びますが、地面に埋めておいた僕に失望し、預けておいた1タラントをも取り上げて、10タラントを持つ僕に与えるというものです。

 この譬えから、言えることは、人は一人一人、賜物として与えられているものが異なるということ。これは、質的にも量的にも異なるのだろうと思います。ですから、他人と違うから、あるいは、他人より少ないからといって、羨む必要はないと言うこと。その中で、その賜物をどう用いていくかが問われている。と言えると思います。

 さらにもう一つの解釈として、「賜物は、我々の意思と努力によって増やせるのだ、あるいは、増やさなければならないのだ」ということが言えると思うのです。5タラントを10タラント、2タラントを4タラント、1タラントを2タラントにしていくということです。
 私たちは、単に、神から与えられたままのものだけでできているのではない。私たちは、成長していくことができる。タラントが増えれば増えるほど大きな働きができる。それによって、神の働きによる実がますます増えて行く。ということが言えるのではないでしょうか。


6.祈りと計画と行動
 次に、「祈り」と「計画」と「行動」について考えてみたいと思います。
 マタイ7章では、「求めよ、そうすれば、与えられる」、「探せ、そうすれば、見つかる」、「門をたたけ、そうすれば、開かれる。」と書かれています。
 この御言葉から、「神にひたすら祈り、求め続けなさい」と教えられることが多いかもしれませんが、探せ、門をたたけ、ということは、もっと、能動的な行為を奨励しているのではないかと思うのです。
 何かが無かったとき、「私には〇○がないのです。どうか与えて下さい」というだけではなく、「一歩、踏み出せ、行動を起こせ」と言っているのではないかと思います。
 「くれない族」という言葉をご存知ですか?けっこう古い言葉ですが、くれない族とは「〜してくれない」とよく口にする人やそういった思考の強い人を意味するそうです。全てに依存的であり、自らに臨んでいる良くない状況は、全て、周りの人々が行動を起こさないことによる、という発想ですね。
 自ら、一歩踏み出していく、それが求められているのではないでしょうか。

   「すべては、神さまが導き、与えて下さる。人間の考えではなく、神の計画を待ち望みなさい」、「人間は、計画すべきではない」と教えられることがあるのですが、ルカ福音書で、イエス様はこのように言われています、
 「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか、そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。」と語られています。ここでは、「計画の勝算について、分析し評価せよ」と言われているのです。
 奉仕するときには、祈りと、計画と、行動が大切であると思います。祈る時は、神に頼る。そして、神から与えられた頭を使って良く考えて計画し、委ねつつ、行動する。ということが大切なのではないでしょうか。
 もちろん、私たちの計画は、失敗することがあります。祈って、導かれたと思っても、実現しないことがあります。しかし、だからといって、自ら考えることを止めてはいけないと思います。聖書の中にも、数多くの失敗が書き留められています。私たちは、失敗から、学びます。
 考え計画するときに、目的として、神の栄光、神の国の実現をしっかり見据えており、自分の喜びや満足を最終目的としているのではないことを確認しながら、しっかりと、考え、計画していくならば、神さまは、私たちに、最善の結果を備えて下さるのではないでしょうか。

 


7.キリストのからだ(協働)
 これまで、奉仕を行う場合の私達個人一人一人の姿勢についてお話したのですが、教会として考えたときに、私たちは、キリストのからだとしての働きを担っていく部分なのだということを考えることが大切だと思います。
 第1コリント12章では、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」とあります。
 エペソ4章では、「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」と書かれています。
 Tペテロ4章では、「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」とあります。
 私たちは、キリストのからだとして、ひとつの目当てに向けて、ともに働くものである、ということを認識しながら、神の働きに参画していくことが求められているのではないでしょうか。

以上で、私からの発題とさせていただきたいと思います。