日本及び日本管轄区域における捕虜収容所

アメリカ捕虜情報局、及び調査部の報告書より抜粋

                      ――ジョンM・ギブス 1946--31

                               (JOHN M. GIBBS

 広島第4分所、向島捕虜収容所

1.位置

  19458月の原子爆弾による広島 の一部全滅により、その都市に位置すると考えられる日本の捕虜収容所におけるアメリカ兵捕虜にとって何が起ったかということに関しては、いくつかの憶測が あった。広島の捕虜収容所は原爆投下前に移転したということを述べた東京のスイス代表部からの電報の受信により、これらの捕虜の運命に関して不確かだった ことは、安心の方向で落ち着いた。

  広島地区には8つの捕虜収容所があり、その内、3つは100人以上のアメリカ兵捕虜を収容していた。他の5つの収容所は1人から7人の捕虜を収容していた。

  この報告書は向島の捕虜収容所(広島第4分所)についてのみ記述する。向島は、本州と四国の間の瀬戸内海の小さな島で、広島の真東―約30マイル、北緯34°23′東経133°12′の位置にある。

  収容所の大きさは約75×150フィート(23×46)で、周囲は8フィート(2m)の材木のフェンスで囲まれていた。

2.捕虜

  この収容所は当初、1942年の11月にシンガポール及びジャワから来たイギリス兵捕虜を収容していた。最初の報告によると、19449月にアメリカ兵捕虜116人がフィリピンからこの収容所に到着した。職務上の観点から次のように分けられた:陸軍109人、海軍7人。アメリカ兵捕虜が到着してみると、カナダ人1名を含むイギリス兵捕虜78名がここに収容されていた。194497日から1945820日まで、この収容所でただ一人の将校は、R.タウンセント・アートマン少佐(Maj. R. Townsend Artman、後に中佐)で、米軍医療部で、収容所の全ての捕虜の担当医であると共に、アメリカ上級将校であっ た。捕虜の一人が、アートマン少佐についての記事の中で次のように言っている:“少佐は捕虜生活を通じて、ずっと将校としてとどまり、自分の配下にあるア メリカ及びイギリス兵捕虜を慰め、又守るために自分の権限であらゆる事をやった。そうすることによって、彼は自分の部下からも、又日本人からも尊敬を受け てきた。彼がいなかったら、イギリス及びアメリカ両収容所における死者の数はもっと高いものになっていただろうと、正直に私は言える。”(日本に移送され るまでは、アートマン中佐はフィリピンの収容所の1つで医療担当将校であった)

  将校4人及び名簿にある6人の航空機乗組員は19458月8日に日本海上空でB-29を撃墜され、820日に収容所へ連行された。彼らは7日間、救命いかだの上で過し、日本の漁船に拾われた。彼らは目隠しされ、次の5〜6日間は繋がれた状態で、向島に到着し、そこで日本の降伏を知った。

3.警備員

    収容所の所長は日本陸軍の市松中尉で、194211月から1945年の8月まで勤め、その後、日本陸軍の奥林中尉が引き継ぎ、日本の降伏まで指揮した。副指揮官は山地軍曹であった。補佐役として、警備員の近藤軍曹と通訳のフタニと松谷の2人がいた。

4.全般の状況

(a)収容施設:兵舎は、アメリカ兵捕虜に対しては部屋を3つに区切り、同じ屋根の下に便所があり、大きさは約30×100フィート(9×30)。アメリカ兵捕虜に対する兵舎は2段式寝室デッキを含んでいる。イギリス人の兵舎は約40×150フィート(12×46)で、一段のみの寝台デッ キである。収容所の全ての建物は荒削りの材木で作られ、内外とも塗装はしてない。兵舎の屋根は木でできており、耐火材シートで覆われていた。床は荒削りの 板でできていた。兵舎は断熱材は使用してなく、どの建物にも暖房なかったが、電灯は充分に付いていた。

(b)便所:6個の穴のある材木の箱で、コンクリート製の穴をカバーする方式で、毎週、空にしなければならなかった。小便用は仕切りで区切られ、最後の寝室部屋は便所から離されていた。手洗い用の蛇口は6ヶ所あり、水は飲めなかった。

(c)風呂:風呂の建物はイギリス側にあり、全ての捕虜が使った。湯の出る共同風呂は週に2回、準備された。水道の蛇口は両方の兵舎の裏側にあり、顔や手を洗ったり、洗濯用に使った。大きな木製の風呂は一度に10人が入浴した。

(d)調理室:コンクリートの床で、別棟の木製の建物。備え付けの火室のある4個の大鍋を備え付けてあった。各鍋1個の容量は20ガロン(76リットル)。食事はアメリカ及びイギリス人のコックが作り、“出来るだけ精いっぱいの食事を作った”と言われている。食事は兵舎でやった。

(e)食べ物:食事は米、又は大豆、又は大麦で、その季節に取れた野菜でスープを作り、1日3回食事をした。時々、スープは無かった。時には、非常につまらぬ魚が出た。食事の量は、24時間毎、1人分の量は350700グラムで、働いた仕事の内容により違った。仕事の程度は、重労働、軽労働、病人リストに載っている無労働に分けられた。仕事をしない者は、たったの350グラムの食事だった。食事の質は、全て悪かったが、日本の関係者は最高の事をやったと言っている。

(f)医療設備:“捕虜”という項目に、アメリカの医療担当将校が行った十分な医療配慮について言及されている。彼を2人の衛生兵が補佐した。造船所の医療スタッフによる働く捕虜に対する医療は、非常にお粗末であった。実質的には、医薬、医療品の支給は全て赤十字からなされた。アメリカの医療担当将校は、病気の捕虜のために、収容所で毎夜、診療呼び出し体制をとっていた。

(g)供給品:(1)赤十字―YMCA―その他の救援:赤十字から約5個の食糧小包が、この収容所の捕虜に与えられた。赤十字からの薬や医療品については、病気の捕虜のための使用以外については言及されていない。(2)日本からの支給品:19449月にアメリカ兵捕虜がこの収容所に到着すると直ぐに、次のものが支給された: 帽子1、シャツ1、コート1、ズボン1着、それにゴム底のズック靴1足。194412月には、収容所当局が、収容所で着用のみの日本軍の冬用ユニフォームとオーバーコートを支給した。衣類については日本からの支給は他になかった。

(h)郵便物:(1)郵便出し:全ての捕虜は毎月ハガキを書くことは許された。ハガキのほとんどは宛名人に到着せず。おそらく、収容所から外に出ていなかったのだろう。(2)郵便の入手:郵便は年間を通して、3〜4回届いた。

(i)労働:将校は収容所の周囲で全般的な仕事をした。アメリカの将校でただ1人、軍医だけが自分の時間を昼夜を問わず、専門の仕事に没頭した。名簿に載っている男たちは、造船所で、船の掃除、材木や資材の運搬、 溶接、鍛冶、工場での全般的な仕事に従事した。労働条件は悪く、捕虜たちは寒さや雨にさらされ、無防備の機械装置の周りの危険な場所で、強制労働をさせら れた。労働中、空襲に対しては防護が充分でなかった。この計画は明らかに、軍事上の目標となった。


(j)捕虜の取扱い:残虐行為は無かったが、小さな殴打や平手打ちがあった。日本人が捕虜に屈辱を与える時は、いつも躊躇せずにそのようなことをした。

(k)給与:(1)将校:日本人の将校と同等の額。(2)イギリス人:軍曹―日給20ポンド、兵卒―日給10ポンド。

(l)娯楽:無し。

(m)宗教活動:捕虜たちの中に従軍牧師はいなかった。日本人は、礼拝の準備はしてくれなかったが、年に3〜4回、夫々の宗派の礼拝を行う権限を捕虜たちに与えた。

(n)モラル:かなり良かった。

5.移動

    この収容所は、1945912日に解放された。当初の116名のアメリカ兵捕虜たちは、別車両の病院車及び荷物用車両と共に、1人1座席付き普通車両の特別列車で、尾道、福山、大阪、及び名古屋経由で横浜に向かった。

 

 



 スケッチの説明

アメリカ兵捕虜収容所

1.捕虜の居住地区:各部屋は33人収容。大きさは約25フィート(7.6)の正方形状。2つの部分からなる木製の仕切り付きの台―睡眠用。暖房装置、空調は無い。

2.便所:上記に記述。

3.収容所の給水―ポンプ室より供給。

4.供給飲料水の加熱器1台。これは回復期にある1人の患者の仕事であった。

5.日本人の貯蔵倉庫

6.日本人の番兵の建物。24時間見張りが行われた。

7.小さな丘の側に建設中の防空壕があった。これは又、回復期にある患者たちの仕事でもあった。

8.全体の敷地を囲む高さ8フィート(2m)の木製のフェンス。

 

イギリス兵捕虜収容所

7.台所。木製の建物、約20×35フィート(6×11)

8.食糧供給室

9.日本側司令部

10.大きな日本海軍の食糧貯蔵所。イギリス兵捕虜収容所の南東側に沿って、ほとんど壁で作られていた。

11.浴場。約25×15フィート(7.6×4.6)で、半分に仕切られていた。半分は脱衣用、半分は入浴用。風呂は5フィート(1.5)の四角。寒い時は水を加熱。石鹸で洗った後、1人ずつ風呂に入ることが許された。―――――アメリカ兵捕虜情報局及び調査部より