http://homepage2.nifty.com/ONO_MICHI/MENU/sannichi2002/20020320c.htmより




In memory of those British aircraftmen
who died here on Mukaishima
during World War II
ROYAL AIR FORCE
1177894 AC1 Edward Daniels     3 Dec. 1942    
 1218592 AC2 James E. Higginbotham   4 Dec. 1942  
572371 SGT Ernest Campbell 6 Dec. 1942   
  108934 F/O Federic C.G. Brightwell 11 Dec. 1942
  965151 LAC Eric C. Price   13Dec.1942    
 1047125 AC2 William J. Prince  15 Dec. 1942  
   1193840 AC1 Albert C. Stratford 15 Dec. 1942  
   653402 LAC Charles H. Wood 23 Dec. 1942    
  941229 CPL Daniel J.S. Duff    24 Dec. 1942    
   980284 LAC Clifford Boardman 26 Dec. 1942
932333 LAC Charles B. Russel 27 Dec. 1942  
  1261534 AC1 Francis J. Smith 28 Dec. 1942  
    647970 SGT Harold T. Parker   9 Jan. 1943   
  1074495 AC1 Arthur R. Davies   19 Jan. 1943    
 1156347 AC1  Harold E. Haley 21 Jan. 1943  
   1033850 AC1 Robert Moses    23 Jan. 1943    
  577173 AC1 John C. Smith     20 Feb. 1943   
   856715 LAC James Kenwright   27 Feb. 1943    
 1067845 AC2 Wilfred Greaves     4 Mar. 1943    
 1204573 AC1 Leonard E. Fryer     9 Mar. 1943   
  1264600 AC1 Kenneth F. Cope    25 Mar. 1943   
  1256684 LAC John F.O. Yateman 7 Jan. 1944    
1107399 AC1 William Forsyth   Aug. 1945
             May they rest in peace.  
   ――この地で死亡した23名の英国空軍将兵を偲んで――
Mukaishima Prisoner of War Camp November 1942 - September 1945
During World War II, Japanese military forces brought many prisoners of war to Japan from Southeast Asia. About 36,000 men were held in 91 prison camps around the country and forced to work in places such as mines and factories.
This building was used as Hiroshima Prisoner of War Sub-Camp No. 4 to intern 216 men, who were put to work carrying materials in the shipyards here until they were freed after the end of the war.

・ In November 1942, 100 British aircraftmen were brought here from Indonesia. Of  these, 23 became ill and died.
・ In September 1944, 116 American soldiers were brought here from the Philippines.
・ In August 1945, the war ended, and in September, all 193 prisoners were released.
This building has continued to be used as a factory since then.
We record these facts here with a prayer for everlasting world peace.

March 2002 Japan-United Kingdom Friendship Monument Society


向島捕虜収容所 1942年11月―1945年9月
第2次世界大戦中、日本軍は東南アジア各地から、多数の戦争捕虜を日本に移送、国内91か所に設けた捕虜収容所へ約3万6千人を収監し、鉱山、炭鉱、工場などで
労働にあたらせた。
この建物も「広島俘虜収容所―第4分所」とされ下記216名の連合軍将兵を収容していた。終戦後解放されるまで捕虜達は当地の造船所で資材運搬などに従事させられて
いた。
・ 1942年11月 イギリス兵捕虜100名インドネシアより移送される。病気などで23名死亡。
・ 1944年 9月 アメリカ兵捕虜116名フィリッピンより移送される。
・ 1945年 8月 終戦。翌9月、捕虜193名解放される。
その後、建物は工場として使われ現在に至る。  
 「世界の恒久平和を願い」この史実を記す。                  2002年3月
日英友好のモニュメントを建てる会                  

  備考: 1. 23名の死亡者一覧表については、死亡順とした。 2. 死亡者名については、終戦直後まで尾道の共同墓地に存在していたプレート、及び現在、
横浜市保土ヶ谷区にある「英連邦戦死者墓地」のプレートに記されている名前で確認し、更に「英連邦戦死者墓地委員会」―
英文名"Commonwealth War Graves Commission, Maidenhead, Berkshire, 1986"の資料により再確認した。 3. 23名の内、最後に亡くなった
William Forsyth(ウイリアム・フォーサイス)については、スコットランド人で終戦後イギリスに帰る時に亡くなったとのことで、死亡日は分からない
―――Norman Widlake(1998年11月来日)より聴取。 4.ROYAL AIR FORCE:英国空軍   人名欄:左より「認識番号」「階級名」「名前―姓名」「死亡年月日」  
 階級名については下記参照:

      F/O-----Flying Officer 空軍中尉
      SGT----Sergeant 空軍軍曹
       CPL----Corporal 空軍伍長      
      LAC----Leading Aircraftman 空軍上等兵
      AC1----Aircraftman 1 空軍1等兵
      AC2----Aircraftman 2 空軍2等兵    
 In memory of those British aircraftmen who died here on Mukaishima during World WarU   
  :第2次世界大戦中、ここ向島の地で亡くなった英国空軍兵を偲んで
 May they rest in peace.
  :心安らかならんことを 尚、英文記事については、全て、
 Nancy Ross氏(米国、カリフォルニア出身、長年にわたり広島及び福山YMCAにて英語指導)の校正指導をあおいだ。 2002年1月、小林(TEL:0847-51-4346)

2001/10/10元捕虜のジョンさんが孫娘のキャサリンさんと共に来向されました。


John Ovens氏の日本での経験―当時(1942−45)と現在(2001/10)  
  (訳・小林皓志)
1941年、私は英国空軍(地上要員)に入隊し外国勤務に志願した。1941年12月に兵員輸送船'エンプレス・オブ・オーストラリア'号でスコットラン ドのグリーノックを離れる。我々は中東のバスラでの戦闘に参加する予定だったが、出航後まもなくして英国陸軍省よりシンガポールに向かうよう再び命令が 下った。しかしながら、日本軍は我々が到着する前にシンガポールを占領しており、それで我々は再び命令を受け、今度はオランダ領東インド諸島(現、インド ネシア)のジャワに向かった。 ジャワは我々が到着して間もなく攻撃を受け、隣の島のスマトラに送られた。約1ヶ月の後、我が部隊は日本軍に降伏し、我々は捕虜となった。 私は日本軍の捕虜としての生活がスマトラで始まったが、しばらくしてジャワに連れ戻された。当時、日本陸軍はシンガポール経由で我々の多くを日本の本国へ 連れて行くことを決定した。これは、'大日丸'という船における長くて、恐ろしい航海を伴った。この航海で赤痢や同類の病気で非常に多くの捕虜達が命を 失ったが、私はこの苦しい体験をどうにか乗り切った。我々100名は最終的に日本の瀬戸内海にある向島に送られた、そしてどうにか満足のできる兵舎に住ま わされた。そこでは非常に粗末な食べ物の配給(ほとんど玄米)以外は、待遇としては十分耐えられるものだった。 我々は地元の造船所で肉体労働者として雇われ、ハシケから主に木炭の荷降ろしをやった。夏季における我々の労働は、週7日の1日12時間であった。私の体 重は通常の69kgから44kgに落ちた。 向島に3年近くいた後、広島(我々の所から30マイル)に原爆が落ちた、そして戦争はまもなく終った。収容所にいた我々の仲間の内、23名が亡くなった が、主に向島での初期の頃だった。残りの77名は、同じ場所の米軍捕虜収容所の者達とともに、帰国への出発点となる横浜へ汽車で輸送された。私は入院およ び療養治療のため英国軍艦'ルーラー'号でオーストラリアに向かった、そして飛行機で帰国した。 アガペと呼ばれるグループは日本と元捕虜達との和解のために活動するもので、'ロンドン市チャーチ・ミニストリーズ'の会員であり、大英帝国勲位を持つ恵 子ホームズさんという素晴らしい女性がリーダーである。恵子さんは日本に生まれ、イギリス人と結婚するが、夫は後に飛行機事故で亡くなる。恵子さんはロン ドン在住の息子の手助けを得て活動している。 私は嬉しいことに23才になる孫娘、ケイティ・セイルズを引率することを許され、2001年10月6日全日空機でヒースロー空港を立つた。我々は東京成田 空港に11時間半をかけて10月7日に到着した。日本とは8時間の時差(日本の方が8時間早い)である。成田空港でちょっと休憩した後、大阪行きの飛行機 に乗り換えた、そしてそこからバスで京都に向い、最初のホテルに到着。京都はきれいな都市で、日本の古い都のあった所で、我々はそこでしばらく観光をし た。 我々は新幹線で広島に向け京都を立った。私と孫娘は広島駅で皆のグループと別れ、別の新幹線に乗りこみ、私の古里である向島に向って30マイルの旅をし た。列車は向島の隣の尾道市まで行き、そこで我々はユニオンジャックの旗を振る日本の皆さんに出迎えられた。その内の何人かとは、ロンドンで行われたアガ ペの集まりで既に会っていた人達であった、そしてそれは最も興奮する再会であった。我々は向島に到着した時、もっとも素晴らしい歓迎を受けた。私は自分が 昔、働いていた場所に帰ってきたのだ。今では確認できる物はないけれど、唯一変らないまま残っている海の向こうの景色は憶えていた。次の訪問地は私のいた 昔の収容所跡だった。建物は紡績工場になっていた。私とケイティは地元の幼稚園の旗を振ってくれている9人の園児達に出迎えられた。年は3才だと言う。 我々はそれから向島町長に町長室で迎えられた、そして少し休んでから、車で近くの山の頂きに連れていってもらい、瀬戸内海に沈む夕日を眺めた。向島は今で は'世話の島'として知られ、正に我々をそうしてくれた。我々の事についての記事と写真が翌日の新聞に出たようだ。 私とケイティはグループのいる広島のホテルに帰った。そこで次の二晩を過ごした。広島での滞在中、平和公園では短い追悼式に参加したが、非常に感動的なも のだった。そこの資料館では恐るべき原子爆弾の証拠跡を絵で示していた。我々は又、広島女学院中学を訪れたが、素晴らしい演奏をしてくれたりした。広島で の最後の夜はYMCAで、お別れパーティをしてもらった。 次の日は熊野にある紀和町に向った。ここでは、我々は日本の伝統的なホテルに滞在した―――床の上にベッドがある所でも靴を脱ぐ、又風呂の入り方が違う (最初にシャワーを浴び、それから2つの別々の浴槽に入る。あとのものは熱い銭湯で床に小石が敷かれている) 。紀和町は、たまたま恵子ホームズさんが住 んでいた所であり、入鹿の鉱山で働いていた時に捕虜16名が亡くなった場所で、その墓地で追悼式を行った。我々は又、鉱山博物館を訪問したり、ホテルのあ る側を流れる川でジェットボートに乗ったりした。 我々は地元のキリスト教会でホストファミリーと共に日曜礼拝に出席した。礼拝では我々のために同時通訳が行われた。礼拝後、ホストファミリーが我々をそれ ぞれの家に連れて行ってくれた。私とケイティは幸運なことに太平洋に面した地方の山の中の美しい家を持ったホストファミリーに当った。我々はその家族と共 に寝泊まりし、朝食を食べた後、グループの他の人達の所に帰っていった。 太平洋岸の新宮にあるホテルで一夜を過ごした後、我々は東京に向けて出発した、そして豪華な帝国ホテルに着いた。東京滞在中は買物の他に、キリスト教系の 大学を訪問し、教授達の意見を聞いた。 英国外務省は東京のパレスホテルで昼食会を我々にもてなしてくれた、そして別の日に我々は皇居の近くにある英国大使館を訪問した。大使館の素晴らしい芝生 と敷地を見せてもらい、大使館員の屋敷で昼食をとった。在日英国大使夫妻に我々は紹介された。大使はスティーブン・ゴマソール卿で、ソーンベリー市に親戚 があり、自分の息子はケイティと同じ大学に通ったと話してくれた。ケイティは彼をよく知っている。 その日の午後、我々はきれいに管理された保土谷の戦死者墓地に行った。私は、向島の捕虜収容所で亡くなった23名の墓石に出会えて大変うれしかった。墓地 では英国の牧師が手短な追悼式をした。 我々のホテルは、それから横浜の堂々たるグランド・インターコンティネンタルホテルで、9階の部屋の窓から眺める海や港の方の景色は美しかった。我々は横 浜で買物をすることができたし、夕方には大観覧車に乗ったりした(ロンドンアイにあるものと同じ)。 我々が去る前日の日曜日には、地元の教会で和解の礼拝を行い、続いて近くの日本レストランで集まった人達と一緒に昼食会を持った。 残念ながら我々は、本当に素晴らしいかった2週間の後に、日本を去らねばならなかった。そして成田空港からヒースロー空港に向けて出発した。 巡礼の旅の間、我々は2人の日本人ツーリストガイドに素晴らしくエスコートされ、又我々が会った日本人の全ての人達、特にアガペトラストのメンバーの人達 から素晴らしい歓迎と親切を受けた。 私は恵子ホームズさんに最も感謝します、そしてこの和解の素晴らしい巡礼の旅を取り計らってくれた彼女の息子のクリストファーにも。恵子さんの敬虔なキリ スト教精神はずっと輝いてきたのです。彼女がこの素晴らしい仕事をずっと長く続けますように。

 
                 10/11中国新聞提供

日本語 English
元英国空軍捕虜兵士モニュメント(記念碑)
建築呼びかけ





《経過報告》
第2次世界大戦中、広島県下には第4分所の向島と
第5分所の因島に英国及び米国の捕虜収容所がありました。
向島には約100名の英空軍捕虜の方々が、
強制労働をしながら数年間過ごされました。
そのうち、23名がこの地で、天に召されました。
彼らの遺骨は横浜保土ヶ谷区の英連邦墓地
眠っております。1998年11月2日、元英国人捕虜と
ご家族24名が恵子ホームズさんとともに、
「心のいやしと和解の旅」のため 広島を訪問されました。
「日英平和交流広島」代表小林皓志氏他の協力の下に
広島平和公園での礼拝、



向島幼稚園、向島紡績、 日立造船向島工場見学の後、向島教会において
日英合同追悼礼拝が行われました。 この地で初めての追悼礼拝でした。
ご一行は夕べにはグリーンヒルで日本側の関係有志の方々と共に賛美と
親睦のときを持たれ、翌日は 因島訪問、その後、外務省や保土ヶ谷の英連邦墓地
を訪れ、大阪での礼拝を終えて帰国されました。  心のいやしと和解の旅は毎年、
日英相互によって行われ、2000年7月のロンドンでの合同メモリアルサービスには
日本側から尾道からの広島県国際交流協会長松浦精一氏と2名も含め全体で20名
が参列しました。 今年も英国側からご一行24名が10月9日
グリーンヒルに一泊され、翌日しまなみ海道を楽しまれた後、 広島に向かわれ
ました。来年度も訪日が予定されています。  
《協力へのお願い》  
真の和解は過去について正しい理解をすることから始めなければならないと
思います。 大戦中の連合軍捕虜は132,134人でそのうち実に27パーセント
の35,756人が死亡しております。 旧ソ連軍によってシベリアに抑留された
日本人捕虜の死亡率が9,6パーセントであったこと と比較してもいかに多か
ったかわかります。 この異常な死亡率の高さは、日本の収容所の問題だけ
でなく、連合軍捕虜の多くは東南アジアですでに過酷な 強制労働をへて
「病気丸」といわれたほどの運搬船で日本に移送された方々だからということ
です。 捕虜の保護を約束したジュネーブ協定が破られ、いかに厳しい状況に
置かれたか映画「戦場にかける橋」 アーネスト・ゴートン(斉藤和明訳)による手記
「クワイ河収容所」(ちくま学芸文庫)等で知られています。
 21世紀を迎えるにあたり、わたし達はまず正しく過去の出来事を知り、それを
伝え相互の和解に努め る責任を課せられていると思います。 その証として、
この地で若くして死去された人々を偲び、また和解のための旅の方々を迎えるに際して
もその意向を お伝えするためにモニュメント設置を提唱し、ご協力をお願いする
ものであります。  
《設置プラン概要》
(1)すでに建てられている三重県いるかや新潟県直江津の平和公園、また
福岡県などを参考にする。
(2)設置場所、向島か尾道の関係個所。
(3)実行委員会結成して2002年3月には完成したい。
2000-12-1                           
文責 向島教会牧師 南沢満雄
An appeal for the monument construction
During World War U,there were camps of prisoners in Mukaishima(4th area)
and Innoshima(5th area) in Hiroshima prefecture for the Royal Air Force P.O.W
and the United State Air Force P.O.W.
About 100 p.o.ws from United Kingdom were forced to workin
Mukaishima camp for several years. 23members of the RAF died there.
Their remains were buried at the British Common wealth graveyard
forthe wardeadin Hodogayaku ,Yokohama
Nov.2nd in1998,FEP.OW,their family and Ms.Keiko Holmes ,24member of Agape
visited Hirishima for the pilgrimage of reconciliation. And they dedicated their
prayer at Hiroshima Peace Park.
Mr.Koshi Kobayashi ,who is the representative of peace exchange between
Japan and U.K In Hiroshima supporting "Agape" .
They visited Mukaishima-Kindergarden ,Mukaishima Spinning Mill
Factory,Hitachi-dockyard . After that they worshiped
at Mukaishima Christ Church.
This is the first time to hold the memorial service here. In the evening ,
they had a party to worship and promote friendship and mutual understanding
with Japanese people at Green Hill Hotel in Onomichi.
Next day they visited Innoshima with us. After that ,they visited the Ministry
of Foreign Affairs in Tokyo, Hodogaya graveyard in Yokohama.
And they attended memorial service in Osaka.
Then they went back to United Kingdom.
The Pilgrimage of reconciliation for Far East p.o.ws have been done every year
by"Agape"& F.E.p.ows, their family in United Kingdom and Japanese people.
2000,July in London at Kensington Temple, 20members of Japanese people
attended the joint memorial service. 3members of those were from Onomichi
City. 2000,October 9th, "Agape"& F.E.p.ows came to Japan and stayed at Green
Hill Hotel.
The next day they enjoyed sightseeing Shimanami sea line in Seto
Inland sea. And they went to Hiroshima city . This year "Agape"& F.E.p.ows
come to Japan.


"Reqest for cooperation"
We should make the reconciliation with mutual understanding about the past.
In the World War U, there were 132,134 people of Allied Forces of p.o.w.s,and
27% of them were dead.
We have formed executive comitee.
To take the step into this New Century , we ought to know about World War U
,F.E.p.o.w.s ,and the camp of prisoners in Mukaishima (4th area),Innoshima
(5th area) should hand down the true understanding to our younger generation.
By doing this ,we will be able to be reconcilied with p.o.w.s.
We have responsibilities for it to them.
We have to bear it in our mind that 23 members of p.o.w.s who died young.
We are trying to build a monument for their memory.
We have formed executive comitee.
Agape and p.o.w.s and their families make pligrimage of reconciliation
to Japanevery year.

"Summary"
(1) We are to get information from Peace Park Naoetsu in Nigata prf,and from
that of Fukuoka prf.
(2) We are to establish the monument at Mukaishima.
(3)We have formed the excecutive comitee.
We are to complete this plan in March of 2002

Mukaishima Christ Church pastor Mitsuo Minamizawa
m2762@orange.ocn.ne.jp
http://www.nttms.co.jp/mmm/
16058-22 Mukaishimamachi Mitsukiigun Hiroshimaken 722-0073
0848−44−2762 Fax0848-44-2764  



[日英小史]
瀬戸内海と英国との関係は、第2次大戦で捕虜の方々を迎えた1942年より半世紀まえに遡ります。 1884年イギリス・スコットランドからの
ロバート・トムソン宣教師が来日しました。 彼は神戸に住み、島々に神の愛を届けたいと願いました。同じスコットランド・グラスゴーから
旅行にきたミセス・アランも同じ思いをもちました。彼女の息子ロバート・アラン氏はその夢を受け継ぎ、「福音船」の建造費提供を
アメリカンバプテスト宣教師協会に申し出ました。 やがて横浜の小さい造船所でグラスゴーの有名なヨットの設計者による白帆船が
生まれ、『福音丸』 と命名され、1899年ドイツ系アメリカ人宣教師ビッケル船長とと
もに船出したのでした。


5小さい白帆 ([ 船長ビッケル」島々の伝道者より)
瀬戸内海の東、神戸の町の山中通りにひとつの宣教師館かあった。商店街をのぼって丘 の上から神戸の街の屋根と海を眺めるところ、そこにこの小さな白帆の
物語が始まる。 そのときここ住んでおられたのがロバート・トムソン宣教師てあった。彼は1884年に スコットランド聖書協会の代理としてエジンバラから横浜に着いた。
そして二、三年後に バプテストのミッションに加わり、神戸に居住したのである。瀬戸内海に近く住み、岸辺 がその伝道の境界線のように思っている彼にとって、
いつも瀬戸内海と島の人々を心に浮 かべていた。書斎にいながらまた沈みゆく大陽を眺めては、日に幾度も島の村々に十字架 の音信をもたらさねばならないと
考えた。彼がそれを夢みているときに、摂理の神はその 夢の実現を用意されていたのである。  一般の世界観光客が狭い内海の海を抜けて行くときでも、
おそらく島々の家に住む人々 の物質的また精神的状態に心を向けるものは少ないであろう。疲らは、いつも変りゆくそ の景色の美しさをほめたたえるであろう。
執練した船員が、曲りくねる航路をあやつって 行く姿を、また夜の獲物をもって市場に走る漁船の白帆をめずらしく眺めるであろう。島の 急な傾斜面か頂きまで
続いている光景に見とれるであろう。船を漕ぎ、網を投げまた丘 陵を耕作し、灰色の村々に住んている人々に対して思いを走らせるものはほとんといない。
しかし本当に、こうした多くの旅行者の中に神は一人の婦人を与えた。あの大群衆にあわ れみの目を豊かにそそがれた主のような心をもった婦人を! 
クラスゴーからきた愛する 年老いた一婦人は日本の小さい島々に住む人々が全くかえりみられす、祈りの中にないこ と、あの琉球の島々にいたるまて、
福音を聞く機会を与えられていないことを知った。そ して彼女自身はついに琉球の島に十字架の旗をかかげるようになるのてあるが、 その聖な る思いは
息子、ロバート・ アランに受けつがれた。  こうした島の人々に接して行くのにはどうしたら一番よいのてあるかは大いに議論の余 地かある。伝道船を建造し
 装備をして走ることは莫大な金を要することである。瀬戸内 海伝道の場合、現存している船や、フェリーや漁船を利用したり また主な島々に定住者 をおいて
伝道することは考えられないだろうか。そのような方法である程度のことをなし 得ることは疑いない。しかし数百の小さな島々への伝道は伝道船によるほかはない。
ビッ ケル船長は言っている 「伝道船なしに、多島海を伝道しようとすることは、斧なしに森を 伐りはらうようなものである」と。  「誰かがいっているように最初の
伝道船はノアの舟てあったでしょう。ともかく船は世 界の伝道に大きな役割を果たしてきました。そうした人々は幾度も いわゆる因習的人々や 善良な人々に
反対して 神の召しを受けたのてす。彼らは勇気と子供らしい信仰とを相交 えたものをもって遠い土地に出発して行き その最初はきびしい批判を受けますが、
その 終りはおしまいない称讃を受けます」。  「パウロはトロアスから真直ぐにスマトラヘ そして欠の日はネアポリスに行きました。 人々はそれを反対したのてすが
 その召しは大きく やすみない魂の叫びは彼のうちにひ びきわたっていました。どんな困難も、 海の危険も、 異邦人への伝道をさまたげることは てきなかっ
たのてす。ケリーも、ジャドソンもまたリビングストンも船で出かけたのです」。  「多くの船はあたりまえのことに用いられます。しかしある船は世界伝道という大きな
特別な仕事のために使われます。わたしたちの神は祈りに答えたもうことを誰が疑いま しょうか。モラビアン教徒たちは 次々と四艘のハーモーと呼はれる船を
百年の間、ひた すら神を信じて送ったのてす。文字通りあの偉大な海の賛美歌にありますように 『岩と風、 火と敵から』その困難な仕事から守られてきたのてす」。
 福音船は太陽の下て決して新しいものてはなかった。中部大平洋の島々に 北大西洋の 吹きさらしの海岸に アメリカの日沈む岸辺に アフリカ 中国の大河に
 真理のみ言葉 はたずさえられていったのてある。しかし東アジアのカムチヤッカから赤道にいたる島々 には福音丸が東京湾に浮かぶまては伝道船の姿を見ること
ができなかった。近江ミッション が日本のガリラヤといわれる琵琶湖にガリラヤ丸を浮かべたのも その後てある0  ミセス・アランの記念すベき神戸訪問の二年後に、
ロバート アランはトムソン宣教師 を通してアメリカ・ハプテスト宣教師協会に瀬戸内海の人々の伝道のため船を建造する費 用を提併したいと申し出た。すぐれた母に
 すぐれた息子、 伝道船をつくる素晴らしい贈 物はグラスコーの人々が証言するように キリスト信者の人類愛の一つの証拠である。宣 教師協会は喜びと感謝を
もって この申し出を受けた。そしてすでに述べたように摂理の み手はこの船の船長となり 島への宣教師となる人を備えていたのである。
 ヒッケル船長が妻と小さい子供フィリップを連れて神戸に着いたのは1898年の5月 てあった。船ができあがるまで 船長と家族は長府を伝道の根拠地とする考え
であったが 何かと不便を感じ、船はすベてのものが整っている横浜で建造されることになった。

CAPTAIN BICKEL of the Inland Sea CHARLES KENDALL HARRINGTON)

(2001年・中国新聞提供)
瀬戸田出身の仙太郎、日本人で最初のバプテストのクリスチャン
瀬戸田出身の仙太郎は営力丸に乗り込んで漂流し、
アメリカに漂着した。 やがて、1853年開国を望んだペリー艦隊に
乗船した。 艦隊には水兵としてジョナサン・ゴーブルが同乗していた。
彼は仙太郎に関心をいだき、とくにペリーに頼んで
彼を世話する事とした。
仙太郎は帰米後、1858年(安政5年)3月、ハミルトンの
バプテスト教会でバプテスマを受けた。
ゴーブルはエルザ・ウイクスと結婚、短期神学校に学んで
伝道者の資格を得、1860年4月1日、アメリカ自由バプテスト派として、
仙太郎を伴って神奈川に到着した。
ゴーブルは自分で靴を造ったり、大工の仕事などで生活費を得、
自給伝道者として、路傍伝道や聖書販売をした。
人力車も彼の創案によるといわれる。
また、木刷りの「摩太福音書」を翻訳出版した。
ゴーブル夫妻は一旦帰国した後、
1872年5月アメリカ北部バプテスト海外伝道会社から、
ブラウン夫妻とともに 日本への宣教師として派遣され、
1873年2月7日横浜に上陸した。 ゴーブル夫人は1882年召天、
彼女の希望のごとく横浜外人墓地に眠っている。 ゴーブルは
アメリカに帰り1898年セントルイスで世を去った。
             
  Jonathan Goble &Mrs.Goble
仙太郎は日本では目立った働きは出来なかったらしい。
彼の墓は「三八君の墓」として、中村正直の墓の一つ東京大塚
仲町の本伝寺にある。
(仙太郎はペリー艦隊の水兵たちから
Sam-Patchと愛称されていた)


参考書
「ペリー艦隊・黒船に乗っていた日本人」
−「栄光丸」17名の漂流人生 足立和著(徳間書店)